日本をつくった思想家:鈴木正三
枝廣 淳子
2019年3月15日
私たち幸せ経済社会研究所では、毎月「幸せ・経済・社会」に関わる書籍を読みながら、「持続可能で幸せな社会」を考える勉強会を開催しています。そこで取り上げた、日本の精神構造への鋭い洞察で知られる書店店主・評論家の山本七平(1921~1991年)によって1979年に刊行された『日本資本主義の精神―なぜ一生懸命働くのか』から、日本をつくった思想家の1人、鈴木正三(1579-1655)の考え方を紹介しましょう。
山本七平は、「いずれの社会であれ、その社会には伝統的な社会構造があり、それが各人の精神構造と対応する形で動いており、そこにはそれぞれの原則がある」として、経済学、経営学とは無関係の「見えざる原則」で動いている日本の会社のあり方に迫り、「見えざる原則・経済編」の探究の記録として、本書を著しました。
大きなポイントは、日本人にとっては「仕事は経済的な行為ではなく、一種の精神的充足を求める行為」という側面があることです。山本は、そのルーツを江戸時代(1603~1867年)に見ています。
265年間つづいた江戸時代は、「日本の歴史の中で最も興味深い時代である」とし、それは、「日本人の自前の秩序」を確立した時代であり、それが三百年近く継続した時代であるからと述べています。「明治のように西欧を模倣し、戦後のようにアメリカを模倣した"マネ時代"でもなければ、古代の日本のように、中国のみが典拠であった時代でもなかった。最も独創的な時代であった。その際に準拠しなければならぬものがあるとすれば、それは、自己の精神構造とそれに対応した社会構造である」。
山本は江戸時代を、元禄、享保のあいだ(18世紀のはじめ頃)を境に前期・後期の二期に分け、前期は戦国時代以降乱れていた秩序の回復、政治経済体制の確立から経済成長期に入る時期、後期は一見停滞期のように見えるが、教育が普及し、平民文化が発達し、民衆の生活水準も向上した時期としています。そして、日本をつくった2人の思想家として、江戸時代前期の鈴木正三(しょうさん)、後期の石田梅岩を挙げています。
山本は、「近代資本主義の条件は、「自分のもの、他人のもの」という意識、いわば個人の所有権に対する明確な意識だ」と述べます。「この転機は、どのような思想から生まれ出たのであろうか。西欧においては、プロテスタンテイズムがそれであったが、日本の場合はプロテスタンテイズムでもなければ、それを基にした西欧市民社会の道徳でもない。では何なのか」と問題提起をし、その解を鈴木正三に求めました。
鈴木正三が生まれたのは1579年、日本史上もっとも有名な事変といわれる「本能寺の変」の4年前です。本能寺の変とは、日本全国を統一しつつあった戦国大名である織田信長が京都本能寺の滞在中、家臣・明智光秀の謀反により寝込みを襲われ、光秀配下の軍勢に包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てたという事変です。鈴木正三は徳川家につかえる旗本として、実戦に参加した戦国武士でした。その後、文官官僚的な役割も経験したのち、1620年に出家し、77歳でこの世を去るまで、禅宗の僧侶として執筆と布教活動に務めました。
鈴木正三の思想を紹介しましょう。まず、宇宙の本質は「一仏(ひとつの仏)」であるとし、禅宗の三位一体論を展開しました。「月なる仏」(宇宙すなわち天然自然の秩序)、「心なる仏」(各人の心が宿す天然自然の秩序)、「医王なる仏」(心の病いを癒やしてくれる)です。人が癒やされて「心なる仏」どおりに生きるようになれば、戦乱も起こらず社会の諸問題も解決され、人の集合である「衆生もまた仏」という形で、理想的な社会ができると考えました。
そして、「仏法をもって世を治めたい」として、社会秩序をうち立てるために、人びとがいかに生くべきかの具体的指針を打ち立てたのです。いい社会をつくるためには、まず、「心なる仏」が三毒に冒されないことが必要と考えました。三毒とは、「貪欲」と「瞋恚」(しんい:怒り憎むこと)と「愚痴」です。そのためには、修行すなわち仏行に励まねばなりません。
しかし、僧はともかく、一般の人びとには日々の務めがあり、苦しい労働がありますから、特別な修行や仏行を行うことは難しい。そこで、鈴木が打ち出したのが、「心掛け次第で、労働をそのまま仏行となしうる」とする、「禅宗社会倫理」ともいうべきものだったのです。
鈴木正三の書いたものに、「四民日用」があります。これは、四民(士農工商)が、それぞれ、どのようにしたら成仏できるかを質問し、正三がこれに答えるという形をとっています。「農人日用」では、「『仏行にはげめ』などと言われても、農民にはそんな余暇は全くない、どうしたらよいでしょう?」という問いに対し、正三は実に明確に「農業則仏行なり」と答えています。そして、それによって、単に本人が仏果を得るだけでなく、社会につくし、社会をも浄化する結果になるとしています。
「商人日用」では、当時の社会に蔓延していた商人蔑視を退け、「それに従事する者が、仏行としてそれを行なっているか否かが問題」としています。決して「得利否定」ではなく、「先ず得利の益(ます)べき心づかひを修行すべし」として、その道は「一筋に正直の道を学べし」と述べています。この「正直」こそ、鈴木正三の原則であるとともに、ここに、日本を変えた「結果としての利潤は善である」という思想が生まれたと山本は位置づけています。
つまり、士農工商を通ずる鈴木正三の大原則は、「世俗の業務は、宗教的修行であり、それを一心不乱に行なえば成仏できる」というものです。山本は、その時代的背景として、「戦乱の時代が終わり、確かに平和は来たが、しかし同時に、「戦国の夢」は消え、一種の精神的閉塞状態を招来した。士農工商は徐々に固定していき、人びとが何に「生きがい」を求めてよいかわからぬ時代が来た。この中で、正三は、日々の業務の中に宗教性を求めることに、解決を見いだそうとしたといえる」としています。そして、その発想のもとは、「やはり禅からきたものであろう」として、当時、武士が一心不乱に剣術を学ぶのは「殺し屋」になるためでなく、禅の修行と同じであるという「剣禅一如」という考え方があったことを山本は示します。
ここに、「職業は修行である」という新しい職業観が確立され、日本資本主義の倫理の基礎が築かれたと山本は考えます。「世法を則仏法になし給へ」というのが鈴木正三の念願であり、その発想を四民のことごとくに広げ、これを一種の国民道徳として秩序の基礎を確立し、同時にそれを行なうことの中に、宗教的な精神的充足を求めようとしたのだ、と。
さて、「修行としての職業」という考え方に伴って、「利潤」という問題が出てきます。農工商が一心不乱に働けば、利潤が生じますが、修行としての職業から生じる利潤を追求してよいのか?という問題です。鈴木正三は、それに対し、「もちろんその答えは否であり、それをすれば三毒の一つである「貧欲」に冒される」とします。では、追求したのではないのに、結果において利潤が生じた場合はどうなのでしょうか? 正三は、この「結果としての利潤」は、決して否定していないのです。ただ、この「福徳を得て悦べきにあらず」とし、「巡礼のごとくにあらねばならない」と説きます。
この「利潤の追求は許されないが、結果としての利潤は肯定される」という正三の考え方は、今でも日本に根づよく残っています。山本は、鈴木正三の考え方を元に、一仏の分身としての各自が、自らの「内なる仏」になるべく一心不乱にやっていたところが、たまたま世に有益な製品を提供することとなり、かつ、結果として利潤を生じたにすぎないという考え方を、末端にまで浸透させたら、その企業が世界一の優良企業になっても、不思議ではない、と述べています。
そして、この発想は、16世紀から現代までつづく、日本人の基本的な発想であるとして、「禅とエコノミック・アニマルは同じ発想から出ている」と述べるのです。すなわち、日本人が働くのは経済的行為でなく、一切を禅的な修行でやっているにほかならず、農業則仏行であり、サラリーマン則仏行であり、働くことはすべて仏行、メーカーが物を作り出すのは一仏の分身として世界を利益するため、またセールスマンは巡礼であるからだ、と書いているのです。
山本は、「日本社会では「ブラブラしている」は非難の言葉だが、働かないということは、仏行を行なっていないことだからだ」と説明します。日本人が定年を悲しむのも同じ理由であり、「日本人の勤勉は、過去においてしばしば、「貧しい」からだと言われたがそうではないだろう。これが、徳川時代という自前の体制を自らの手で築きあげたときの、日本人の独創的な思想であった」と述べます。
米国などでは、「FIRE」(Financial Independence, Retire Early」など、早期の退職を希求する人々も多いと言います。方や日本では、2017年の実績値で就業者の12%は65歳以上で、内閣府が60歳以上の就業者に聞いたところ、8割が「70歳以降まで働きたい」と答えています。また、起業家の3人に1人は65歳以上です。人口減少・高齢化の中で労働力不足が顕著になっていること、年金の受給開始年齢の引き上げなどの要因ももちろんありますが、定年退職後の時間を「ブラブラ」するのではなく、仏行を続けたいという精神的な理由も小さくないのではないかと思うのです。
「働くこと」と「幸せ」には密接な関係があります。さらに調査研究を続けていきたいと考えています。