田口佳史のコラム

東洋と西洋の知の融合をめざして

2018年6月14日

日本の地理的特性からの知的遺産

日本の地理的特性の1つは「森林山岳海洋国家」であることです。森林の奥には人智を超えた偉大な力があると信じられていました。濃い森と険しい山が続く場所では「見えない神」を感じる心が研ぎ澄まされます。ここに独特の神観念が生まれました。「八百万の神」というように、山も岩も大木も神となります。

1つに定まった神ではなく、多くの神が存在していること、神の像をもっていないことが神道の特徴です。自然の中に神を見る――こうして鋭い感性と深い精神性が養われていきました。ちなみに、日本のアニメが世界でも評判を博しているのは、こういった感性と精神性の裏付けがあるからでしょうか。

また、水が豊富で地形が急峻な日本では、川は山から海へと急流となって流れるため、その水はつねに澄んでおり、川底まで見通せる清さがあります。ここから清らかで濁らないことを大切とする清明心が生まれました。ビジネスの世界でも腹黒さは嫌われ、清明心は日本のリーダーシップの源泉のひとつとなっています。

日本のもうひとつの地理的特性は、ユーラシア大陸の東端に位置することです。日本にはもともと神道がありましたが、アジアの叡智である儒教、仏教、道教、禅が東へと流れ、東端である日本に次々と到達しました。それらはそれぞれがその形を残しつつ発展したばかりか、融合して新しい文化となり、香りの良い味わいの深い思想哲学を生み出したのです。

日本の背後にある東洋思想

上記の日本の地理的特性から、自然との共生、他宗教とも争わない受容性、多様性の尊重といった、日本の文化的基盤が生まれました。自然の中に生かされているという感覚から、東洋思想の特徴の一つである「万物斉同」(万物は等しく同じ)という思いがあり、キリスト教的な「人間は神から自然の管理を託されている」というStewardshipとは大きく異なる自然観・自然との関係性があります。

東洋思想の基本は「目覚める」こと。仏陀も「目覚めた人」という意味なのです。つまり、真理は外にあり、外から持ってくるものではなく、すべて自分の中にある、と考えます。

東洋思想には「陰陽」という考え方があります。陽とは発展する・拡大する・外に向かっていくといった流れで、陰とは中へ、内面の充実へという流れです。陰陽を見て対応することが宇宙の力に逆らわない生き方・あり方です。

たとえば、子どもにも陽の時期と陰の時期があります。陽の時期には子どもを励まし、外に向かって発展するエネルギーを助けることです。陰の時期にある子どもは、内部の充実を図り、力を蓄えるためのがまんが必要です。

企業にとっても陰陽を把握することが重要です。陰と陽を見分ける名経営者が松下幸之助さんでした。彼は「好況よし、不況またよし」と言っています。不況とは最大のチャンスである、好調時に改革を進めても誰も賛成しないが、不調時なら改革・充実が進められるから、というのです。

同時に「陽極まればと陰なり、陰極まれば陽となる」でもあります。どちらかに極端に走ると反転します。企業でも業績が好調だからと、大盤振る舞いなど外へ向かう派手な流れを作っていると、思いの外早く、暗転してしまうでしょう。

この考え方は、あらゆる物事はさまざまにつながりあっていること、バランスが大事であること、短期的に目の前のことだけで判断するのではなく、行きつ戻りつのプロセスを含めて、長期的・全体的にとらえることの重要性を教えてくれます。

陰と陽がお互いに相補って全体を成しているのですから、両方を活かす道を考えることが大事です。一見矛盾していることの両方を取るという思考を身につければ、「コストか、サービスか」「環境か、経済か」といった二者択一ではなく、一見矛盾した関係にあるものの両立を測ることで、ダイナミックな新しい世界を生み出すことができます。老子が「陰陽和して元を為す」と述べたように、これこそが創造性の源泉であり、イノベーションを生み出す最大の秘訣なのです。

現在直面している諸問題の根源

現在、国や地域、企業や個人はさまざまな問題に直面しています。問題の根源は、近代西洋思想の行き詰まりだと考えています。20世紀は日本も含め世界が近代西欧思想の恩恵にあずかった時代です。しかし、「陽極まれば陰となる」の教えの通り、ある時点からその弊害が目立つようになってきました。

弊害を生み出す近代西洋思想の特徴は、機械論的人間観や経済合理性の偏重などです。経済合理性のおかげで生産力が向上し、富の創出につながるのは良いことですが、今のように、医療や教育などを含めすべてに効率至上主義的な経済合理性を当てはめるのは大問題です。21世紀には新たな枠組みが必要です。

先述したようなすばらしい文化的基盤を持っているにも関わらず、日本は戦後、江戸時代まで大事にされていた人格教養教育をおそろかにしてきたのでした。江戸時代、日本の子どもたちはわずか3歳ぐらいから四書五経の素読を始め、さまざまな年齢の子どもたちが各自のペースで学ぶ寺子屋で学びました。

立派な人間、つまりしっかりした規範を持った人間を育てるのが目的です。人生や社会にとって有用でない限り、学問だけを修めても意味がないと考えられていました。こういった江戸時代の人格教養教育は、たとえば、新渡戸稲造の『武士道』を読んでいただければ、理解していただけるでしょう。

幕末から大正初期に活躍した実業家・渋澤栄一氏は数百の会社を興し、日本資本主義の父といわれています。彼の父親は普通の農民でしたが、四書五経をすべて修めており、食卓では子どもたちと「論語」をめぐっての会話が弾んでいたそうです。このように、家庭を基盤に規範形成の共通項が共有され、日本を安定させていたのです。

日本語の「正しい」という漢字は、「一」に「止」と書きます。ある一線で「これを超えてはならない」と止まることです。社会が「超えてはならない一線」を共有してこそ、安心して生きられます。しかし、これがなく各自がそれぞれに「自分勝手な一線」を判断基準にしようとすると、果ては「人を殺して何が悪い」という人が出てくるなど、混乱し、社会も企業などの組織も十分に機能ができなくなってきます。

現在の日本はまさにこういった無規範社会になりつつあります。人間として大切なことを教えなくなってしまったからです。その大きな原因は、明治維新後、列強に痛めつけられた中国の悲惨な状況を見て、産業革命を早く実現しなくてはと技術導入を必死に進めたことにあります。そのために教育も、技術・知識を重視するものとなり、その後もずっと人格や教養を重視する教育に戻っていないのです。

技術知識教育で一流の技術者を育てることはできますが、一流の人間は育てられません。本当の意味で立派な人間になるための教育を取り戻す必要があります。経済の不況はいくらでも取り戻せますが、精神の退廃は回復するのに何十年もかかります。すぐにやらなくてはなりません。

東洋と西洋の知の融合をめざして

江戸時代後期に活躍した日本を代表する思想家の一人、佐久間象山は「東洋道徳、西洋芸術」と、東洋・西洋それぞれの強みを指摘しています。「真理は自分の内にある」と考える東洋では、「人間とは何か」といった原理原則を求め、自分の内にある真理へと向かっていきます。最も根本にあり、時代や社会が変わっても揺らぐことのない原理原則を追求し、大事にするのが東洋の強みですが、一方で応用性に欠けるきらいがあります。

西洋では「真理は外にある」として、外にある真理に向かって突き進みます。刀折れ倒れたならば、そこから次の人が引き継いで進んでいくことができます。普遍化に秀でており、具体的に物事を動かしていく技術(art)に長けているのが西洋の強みといえるでしょう。

両者の強みを持ち合い、新たな枠組みを共創していかなくてはなりません。日本も戦後、"西洋化"する中で、「短期的な、目に見えるもの・測れるもの」のみを重視し、その背後にあるさまざまなつながりや長い時間軸を考えないようになってきました。東洋思想の特徴でもある「曖昧・割り切れないこと」を認められなくなり、何に対しても唯一の絶対解があるかのような融通のない考え方になってきました。

私たち日本人は、私たちが失いつつある日本と東洋の文化的基盤を取り戻しつつ、東洋と西洋の知の融合を通じて、世界の新しい枠組みを共創していかなくてはなりません。それが21世紀の日本に生きる私たちの役割だと信じています。

田口 佳史