田口佳史のコラム

老荘思想と日本の心 「見えないものを見る文化」

2018年9月27日

見えないものを見る。
聞こえないものを聞く。
触れないものに触る。
ずっと我々日本人は、ここにこそ真の感動があると信じて、そのことを追い求めて来た。
だからこそそのものは、現実にあるよりもっと美しい。
もっと深い意味を持つ。
もっと追って来る。
だからこそ、追い求める意味があるのだ。
だからこそ、数千年の時空を越え、あらゆる民族の相違を超え、主義主張を超えて、人間普遍の境地に立って味わうことが出来るのだ。
無いからこそ有る。
色が無いモノクロームだからこそ、そこに多彩な色を想像し観ることが出来る。
無音だからこそ、あらゆる音を感じることが出来る。
無いからこそ有る。
無いからこそ豊富になる。
豊富さとは無いことから生じる。
我々日本人は、この真の豊富さを追い求めて来た。 その根底には「老荘思想」がある。
「老子」は語る。
「之を視えども見えず、名づけて夷と曰う。  
 之を聴けども聞こえず、名づけて希と曰う。
 之を搏てども得ず、名づけて微と曰う。」
老子は「道」という宇宙の根源を深く承知し、その有り様を体得することを説く哲学である。 では、その道とはどの様なものなのか。
その説明が前述のフレーズである。
つまり道とは、見ようとしても見えないもの、聞こうとしても聞こえないもの、触ろうとしても触れないものだという。
一体これは何を表わしているのだろうか。
この世のものは総てが、「見えるもの、聞こえるもの、触るもの」である。
我々はそうして世界に暮し、そうしたものの一挙手一投足に、一喜一憂し、悩み苦しみ怒り嘆き、喜び安らぎしている存在である。
しかし我々は、もう一つ気付かなければならないことがある。
この世にはもう一つの存在があることを。
それは、「見えない、聞こえない、触れない」存在があり、それこそがこの宇宙の根源を成しているのである。
つまり、むしろ我々が心を向けるべきは、こちらの方なのである。
これは、一見見えないが、よくよく見る、眼の力で見るのではなく、心によって、心眼によって見るべきものであり、その声は耳で聞くべきではなく、心で聞くべきであり、手で触るべきではなく、心で触るべきものだということを示しているのである。
それでこそ我々は心の安定、つまり「安心」を得ることが出来る。
安心の境地とは、見えない、聞こえない、触らないものとの一体感において始めて得られるものである。
そんなことが我々人間に可能なのであろうか。  
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を
 生じ、三は万物を生ず」
この世の万物は総て道より生じたものと老子は言っている。
ということは、我々人間も道から生じたものなのである。
いわば道こそが我々人間の母なのである。
母である道と子である我々人間が、何故一体となり得ないのであろうか。 我々人間が道を母と気付かないからである。
街ですれ違っても、気づいていないから出会うことはない。
老子は我々人間の真の母が道であることを我々に気づかせてくれているのだ。
と同時に、見えたり、聞こえたり、触れたりする一過性のものより、もっと永遠不滅の存在があることも我々に知らせている。
道が無限の存在だからこそ、万物という有限の存在を生み出し続けているのだ。
したがって我々は、この無限の存在と一体感を得るべく、「視れども見えず、聴けども聞こえず、搏てども得ず」の存在を相手に生きて、始めて至極の境地に到達できるのである。
このことを我々日本人の祖先はよく知っていたと思われる。
それは、我々の祖先が持ったユニーク極まりない宗教「神信仰」によって判然する。

S