老荘思想と日本の心 「老荘思想の本質」
2018年11月27日
老荘思想の本質とは何か。
それは、「悠久無限の存在」にある。
これを「道」という。
我々現代人は、見ることが出来るもの、聞くことが出来る声しか信じようとしない。
したがって「言葉」というものに絶大なる信頼を置いているのだが、果たして真実、こうしたものが絶大なる信頼に足るものだろうか。
老荘思想は、「だからダメなのだ」と言っている。
真実とは見えないところ、聞こえないところにあるのではないだろうか。
例えば人間である。
その人の真実とは、その人の発する言葉、その人の衣服、その人の肩書にあるのではない。その人の心の中にこそ、その人の真実はある。そこを見ずして、その人の真実を見ることは出来ない。
心の中、つまり真実は見えないところにあるのである。
したがって老荘思想は、言葉や肩書、衣服や装飾品に囚われることはない。
そうしたものは総て、真理ではないからだ。
また人間が卓越するとは、どの様なことを言うのだろうか。
見えないものを見て、聞こえない声を聞くことである。
達人には、明日が見える。だから明日に向けての正確な準備が出来る。
漁師も明日の天候が読めて始めて一人前といわれている。
達人には、後が見える。だから背後から討ちかかられようと、剣の達人はその太刀を受けることが出来る。
この様に高度な技術、深い思考というものは、総て見えないところ、聞こえないところにあるのだ。
老荘思想は、「道」を見ようとしても見ることが出来ない。
聞こうとしてもその声を聞くことが出来ない。
触れようとしても触れることさえ出来ない。
でも、存在する。
いや、そうした存在だからこそ「悠久無限の存在」でいられるのだと言う。
我々人間も、鳥や獣、草や木も、万物は総て、道から生まれたものだと主張する。
したがって、まず自分の内に、道が在る。
道の一片としての自分、これに気付くかどうかが重要になる。
したがって、真理は総て自分の中の道、つまり自分にあって、外側のものにはない。
更に総てが自分と同じ道から生じた道の一片である。
したがって老荘思想は、万物を「斉同」すべて同じと見て、差別しない。
貧富、貴賎は、その人の真実ではないからこれを区別しない。
したがって、総てのものと対立しない。
だから、争うことがない。
更に言えば、視点は常に道に向いている。
この悠久無限の存在の在り方にこそ、自己の在り方の理想を見ている。
有限である人間が、その有限性、つまり生死の意味に目覚めるのは、この悠久無限の存在を常に忘れないで、その形なき形、声なき声を見よう、聞こうとするからである。
生きていることの有り難さ、喜び、満足以外に何があろう。
それ等は、まあ有ればよし、無くても良しのものだ。
しかし多くの人間は、むしろ生きていることの有り難さ、喜び、満足以外のものを重視し、それを得ることに人生を費やしている。
いや、それを得る為にむしろ肝腎の生きていることを傷付けてしまっているのだ
自分の生きていることを粗末にすることは、他人の生きていることも軽視することになる。
したがって、この様な人が、自分の思い通り円滑に人生を送ることは出来ない。
したがって、本質を見失ってひたすら苦悩深い人生を送ることになる。
老荘思想は、したがって文明というものを必ずしも称賛しない。
むしろ文明は行き過ぎる傾向にあり、行き過ぎた文明は人間を疎外する。
自分で自分の首を締めることになる。
自己の内にこそ霊妙無限な能力と知恵が在るというのに、それに気付かず、ひたすら外へ外へと能力を求めている現代人に対し、大いなる警告を発しているのである。
21世紀初頭のいまこそ、もう一度、この人間の根源に立ち返って、自分自身を見直そうではないかと、老荘思想は主張しているのである。
もう一度この老荘思想の言葉に耳を傾けようではないか。