老荘思想と日本の心 「日本人の伝統的勤労観」
2019年2月18日
人間にとっての幸福の元は何処にあるのか。
多くの人々は、それは自分の外側にあると思っている。
「だから一生得られないのだ。それは、自分の内にある」
と老荘思想は言っている。
老子の一言はそれを端的に語っている。
「足るを知る者は富」
この世の中での最高の富者とは、大金持、大資産家を言うのではない。
何故なら、その人がそれで満足せず、常に不平不満の心を持っている限り、それは「貧者」であって、決して富者などと言える存在ではない。
真の富者とは、いまの生活に満足し、深い感謝の心を失わない人間のことを言うのだ。
何故なら、更に老子は言う。
「天下、皆な美の美たるを知るも、斯れ悪のみ。皆な善の善たるを知るも、斯れ不善のみ」
社会の人々は、他人や自分のことを、美しい人だ、善い人だなどというが、こんな不確かなことはない。
だって、もっと美しい人が出て来たら、もっと善い人が出て来たら、そちらの方に目が移ってしまう。
美しい、善いなどは、比較の産物で、絶対的なものではない。
他のものとの比較など何の意味がある。
自分は自分、他人は他人。
だから自分の内、心が問題なのだ。
外側にあるものなど、大したものではない。
しかし我々は自分自身よりも外側のものを大切にはしていないか。
外から来るもの、例えば自分に対する他人の評価、噂話などで一喜一憂しすぎてはいないか。
幸福の大元は自分の中にあるのだ。
老荘思想の内面重視、自己重視は徹底しており、総てのもの事は自己の内面から生じているとしている。
確かに、その時の心持ちによって、同じ風景が全く違って見えたりする。
その時の気分によって、食事の旨さも違ってくる。
問題は自己の内面なのだ。
老子は言う。
「人を知るものは智者ではあるが、己れを知る者こそ明者(真の智者)と言える。他人に勝つものは力を持つ者とはいえるが、己れに勝つ者こそが真の強者と言える」
こうした老荘思想の考え方は、日本人の生き方にも可成り強く影響を及ぼしている。
その一つに、日本人の「勤労観」がある様に私には思える。
何故職業を持つか。
何故仕事をするのか、という問いに、伝統的な我国の勤労観は次の様に答えている。
「達人になる為の一つの方法として」
何故板前になるのか。
「達人になる為の一つの方法として」
何故銀行に勤めるのか。
「達人になる為の一つの方法として」
何故画家になるのか。
「達人になる為の一つの方法として」
何故販売員になるのか。
「達人になる為の一つの方法として」
つまり、達人というゴールに向かって腕と人間を磨く日々こそが、勤労というものだというのである。
と言うことは、ゴールである達人になることよりも、そこに至る道こそが重要になる。
日本人は何んでも「道」にしてしまうといわれている。
柔術は「柔道」となり、茶の湯は「茶道」になる。
最近では、野球も極わめる対象となれば「野球道」となり、セールスマンも「販売道」になる。
まさに道(中国語読みで「タオ」)、タオイズムである。
宇宙の根源、「道」から出て人間は誕生する。
そして道から遠去かって前半生をおくり、反転して後半生をおくり、やがて道へと帰り、道に入って死ぬことが、人生である。
老子第五十章「出て生き、入りて死す」
まさに人の一生は、道から出て戻るまでに宇宙の真理を掴んで来るかである。
侘び茶の大成者、利休は次の様に言った。
「茶の湯の第一は、仏道修行の心を体して茶の湯の修業を極わめ、悟りを開いていくことである」
日本人の美点のと言えば必ず「勤勉」が挙げられるが、その背景にはこの様に、老荘思想から来る「勤労観」があることを忘れてはならない。
忘れてはならないのは、日本人自身ではなかろうか。